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限りある時間の使い方 PART1

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自分には限界がある。なにもかもはできない。なにをやるかを自分で選択する。
結婚や仕事を決め選択肢を減らすことが決断だ。
なにかに時間を使うことは、何かをしないということ。
現実を受け入れ、自分の限界を認める。
全てをやれることなどない。
やるべきことはいつだって多すぎるし、これから先もそれはきっと変わらない。その中で心の自由を得るための唯一の道は、「全部できる」という幻想を手放して、ひと握りの重要なことだけに集中することだ。
自分ができること以上のことをやり遂げなければ、満ち足りていると思えない。楽しい活動をいくら詰め込んでも、どこか満足感が得られないのはそのせいだ。
やることリストを最速でこなせるライフハックを身につけてもリストの最重要項目はいつまでたっても手付かずのまま残る。
「全てをやれるはずだ」という意識が強くなると、「何を優先すべきか」という問いに向き合わなくなるからだ。
第2領域に時間を使うべき。
人生で経験出来ることは限られている。すべてを体験しようとするのは不可能だという現実を受け入れよう。自分に許された数少ない経験をこころから楽しめるようになる。
効率的になれば幸せなのか。インターネットで買い物、スマホで自動決算などではなく、店にいき現金で買い物したほうが人とのやり取りが生まれてよいのではないか。
今日人生最後の日かもしれないつもりでではなく、実際に最後かもしれないのだ。自分の人生を自分で選択していく。自分の責任で生きる。人生は選択し可能性を捨てて生きていく。
自分の人生の有限性を直視して初めて、私たちは本当の意味で、人生を生きはじめることができるのだ。
人生の日々の暮らしに価値があるのは、人生が永遠ではないからだ。死にかけた体験をくぐり抜けた人たちは、時間との新たな関係、より誠実な関係を手入れることが多い。限られた時間という残酷な現実に気づき、ようやく本物の人生に出会えた感覚、といってもいいだろう。 何かを諦めるのはつらいと、何もかも詰め込みたいのは無理もないが、一つを選択するというのは前向きなコミットメントだ。結婚を例にとると、一人の女性に誓いを立てることが素晴らしいことなのだ。失う不安のかわりに、他の可能性を捨てる喜びを手に入れる。
タスクを上手に減らす3つの原則
1.第2領域の時間を取っておく。その活動を今すぐやるべきだ。
2.進行中の仕事を制限する。脳内のメモリーのことを考えておく。
3.優先度「中」を捨てる。人生でやりたいことトップ25の内、5位まではやって残り20は捨てる。
完璧主義者は身動きできない。何かを選択することは、他のすべての可能性を捨てること。可能性の中で生きるのはやめる。
仕事にしても恋愛にしても、妥協して決断をし、残りの選択肢を排除すること。進むべき方向はただ一つ。自分が選び取った未来に向かって前進するだけだ。
アテンションエコノミーが私たちを商品にし、私たちはただの燃料として、シリコンバレーの炎に投げ込まれた丸太だ。私たちの注意は個性を剥(は)ぎ取られてデータの貯蔵庫に投げ込まれそこで企業に使い尽くされる。
問題は他にもある。本当に深刻なのは、アテンションエコノミーが私たちの注意力を叩き壊し、限りある時間を有意義に使おうという努力でさえも徹底的に損なってしまうことだ。
アメリカ人男性、スティーブ・ヤングが日本で修行をした。真冬に水をかぶる修行をしてあることに気づく。辛さを他のことを考えることで紛らわそうとするよりも、意識を冷水に集中させて、強烈な冷たさを全力で感じた方が、苦痛が軽減されるのだ。 今ここに集中する技術を身につけたおかげで、日常のさまざまな場面で感じる苦痛が明らかに減っていた。以前なら考えるだけで憂鬱になっていた雑用にも前向きに取り組める。問題は活動そのものではなく、自分の心の中の抵抗にあったのだ。 抵抗をやめて、目の前の感覚に注意を向けると、不快感は静かに消えていった。
ヤングの試練は、人が注意力散漫になるときに、本当は何が起こっているのかを示唆している。目の前の苦痛から逃れるために、気を紛らわせてくれる何かを探しているのだ。
例えば仕事中のSNSなどを観てしまうのもそうだ。ついSNSを開いてしまうのは、なんとなく退屈でやる気がでないときだ。
不思議なのはやりたい、やり遂げたいということでもなぜかやりたくなくなって気晴らしに逃げてしまうのだ。ものすごく重要でやりたいと思っていた活動がなぜか急にひどく退屈に感じられて、一瞬も集中できなくなる。
この不可解な現象の答えは、何を隠そう、私たちの有限性にある。私たちが気晴らしに屈するのは、自分の有限性に直面するのを避けるためだ。つまり、時間が限られているという現実や、限られた時間をコントロールできないという不安を、できるだけ見ないようにしているのだ。 重要なことに取り組むときに、私たちは自分の限界を痛感する。思い入れが強いからこそ、完璧にできないことがもどかしい。
しかし自分の限界に出会わなければならない。自分は思ったほど才能がないかもしれない。人間関係の泥沼にはまり込むかもしれない。仮にすべてがうまくとしても、そうなることを事前に知ることは不可能だ。だからすべてをコントロールしたいという欲求を捨ててとにかく進んでみるしかない。「窮屈な現実に閉じ込められ、無力な囚われの身となる」リスクを受け入れるのだ。 退屈とは「ものごとがコントロールできない」という不快な事実に直面した時の強烈な忌避(きひ)反応だ。退屈はいろんな場面でやってきて共通しているのは、自分の有限性が目の前に突き付けられているという事実だ。
物事は理想的ではないかたちで展開していく。私たちにできるのは、その事実を受け入れ、現実に身を任せることだけだ。
そんな現実をみたくないから、私たちはオンラインの世界に逃げ込んでニセモノの万能感を得ようとする。インターネットで時間をつぶすのは特に楽しいわけではないけれど、楽しいかどうかは関係ない。なにものにも束縛されない幻想が、有限性の痛みをやわらげてくれれば充分だ。 気晴らしの欲求をすっかり消滅させる方法があればいいのに、と思う。不快に感じることなく重要なことに集中できる秘技を、今すぐ披露できたらどんなにいいだろう。でも正直なところ、そんな方法がこの世に存在するとは思えない。私たちにできる最善のことは、不快感をそのまま受け入れることだ。 重要なことをやり遂げるためには、思い通りにならない現実に向き合うしかない。その事実を受け入れ、覚悟を決めるのだ。解決策がないという事実こそが、ある意味で解決策だといえるかもしれない。
スティーブン・ヤングが高野山での修行で見出したのは、現実から逃げるのをやめれば苦痛はやわらぐという事実だった。現実逃避をやめて、凍てつく水をしっかりとその身に受け止めた時、それまでの苦痛は消え去った。
嫌だという気持ちよりも、今ここで起こっていることに注意を向けることができたからだ。
別に修行僧になる必要はない。日々の生活でも同じだ。
難しいタスクを落ち着いてやり遂げるには、完璧に没頭できる状態を夢見るよりも、嫌な気持ちをそのまま認めたほうがいい。苦痛や退屈を否定せず、今起こっていることをそのまま見つめたほうがいい。
禅の教えによると、人の苦しみはすべて、現実を認めたくないという気持ちから生じるのだという。「こんなはずではなかった」「どうして思い通りにいかないんだ」という気持ちこそが、苦しみの根源なのだ。
自分は万能ではない。ただの無力な人間で、それはどうしようもない。
その事実を受け入れた時、苦しみはふいに軽くなり、地に足のついた解放感が得られるだろう。「現実は思い通りにならない」ということを本当に理解したときに、現実のさまざまな制約は、いつのまにか苦にならなくなっているはずだ。